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- 大宅郷(古代)とは
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大宅郷(古代) 奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」名草【なぐさ】郡二十一郷の1つ奈良期の年月日未詳の優婆塞貢進文に「紀伊国名草郡大田郷戸主大宅直広麻呂直乙麻呂〈年十八〉」と見えることから(正倉院丹裹古文書/県史古代1),「和名抄」に同じく見える大田郷と当郷は近接し,当郷名を冠する大宅氏の存在が知られるなお,「新撰姓氏録」和泉国皇別に「大家臣建内宿禰男紀角宿禰之後也謚天智庚午年依居大家負大宅臣姓」と見え(群書25),「続風土記」はこの大家氏が当地に居住していたとも推定しているが,詳細は不明さらに同書によれば当郷名は「日本書紀」欽明天皇17年条に見える「海部屯倉」に由来するともいうが確証はない当地は中世における小宅郷,近世における手平村付近にあたり,手平村の北に位置する堤を大宅堤と称したというので,当郷域も現在の和歌山市手平を中心にして小雑賀【こざいか】・杭ノ瀬・手平出島・新生町・南出島・中島・新中島などの一帯に推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大宅郷(古代) 平安期に見える郷名「和名抄」河内国河内郡七郷の1つ「新撰姓氏録」河内国皇別に「大宅臣 大春日同祖 天足彦国押人命之後也」と見え,当郷に大宅氏が居住していたと思われるまた,当郷は郡衙の所在地といわれる(枚岡市史3)なお,河内郡の大領河内連一族の氏寺という河内寺の遺構が,現在の東大阪市河内町にあり(原始・古代の枚岡1),「和名抄」が当郷名を桜井・豊浦郷の間に配列していることから,当郷の比定地は河内町付近と考えられる(枚岡市史3)一方,「地名辞書」は,日下【くさか】の中に大宅・大戸2郷があるといい,現在の東大阪市の日下町・布市町・元町・池之端町・善根寺町付近と推定しているが,詳細は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大宅郷(古代) 平安期に見える郷名「和名抄」備後国深津郡三郷の1つ訓は「おおやけ」と思われる所在については,大宅を屯倉の地名を伝えるものとし,「日本書紀」安閑天皇条に見える婀娜国の胆年部【いとしべ】屯倉はこの地で,江戸期の大門・坪生・浦上・野々浜・津之下・能島・引野の諸村とする説(地理志料),福山市吉津町・千田町地区など旧福山の東北一帯とする説(福山市史・地名辞書)などがあり,「県史」は中世の九条家領坪生荘あたりに求めているいずれも現福山市域であるが未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大宅郷(古代) 奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」播磨国揖保【いいぼ】郡十九郷の1つ訓は「於保也介」「風土記」には大家里・大宅里と見え,旧名は大宮里で,地名は応神天皇が巡幸した時,宮をこの村に造ったので大宮と名付けられ,のち田中大夫が播磨国守の時大宅里と改められたという現在の姫路市勝原区朝日谷から太子町西部の地域に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大宅郷(古代) 平安期に見える郷名「和名抄」下野国梁田郡三郷の1つ高山寺本は「太宅」とする「地名辞書」によると,宅は家に通じ,郡家官家の所在を大宅と呼ぶことから,当郷は郡領の所在地であったのではないかという当郷は渡良瀬川右岸の旧御厨村,現在の足利市福居町・上渋垂町・島田町・百頭町付近一帯に比定される(地名辞書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大宅郷(古代) 奈良期に見える郷名尾張国愛智郡のうち「和名抄」には見えない天平勝宝2年4月6日の仕丁送文に「海連準守〈年十九 尾張国愛智郡大宅郷戸主海連馬手戸口〉」と記されている(正倉院文書25/大日古)比定地未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」